精神科領域で僕が危惧するのは、先にも述べたように、他覚的に症状が分かりにくい人が、いろいろな誤解を受けてしまうということで、かといって、どこから強制的に受診させるのか、そのラインも人権と相俟って微妙です。特に精神疾患患者の犯罪行為がある度に極論が飛び交いますが、医学を学んだ上で、僕はやっぱり精神疾患は人格を失う疾患であり、あるレベルで罪を問えないという判断はおかしくないと思います。

　かつて日航機のハイジャック事件が実名報道されなかったことに関して、インターネットという暴力は、それに反対すれば偉いとでも言わんばかりの、表面だけの意見で溢れ、本当に、ある論理の上に述べられた意見さえも、ゴシップの波に飲まれて消えて行くのです。かといって、個人が自由に何かを表現できるインターネットは、他愛のない、ある意味役に立たないことが乱立できる環境であるからこそ、僕は利用しているのであって、その性質を批判するつもりは毛頭ありません。

　実名報道を控える大前提は、犯人が精神異常者かも知れないから、ということであって、それに反論する意見の大部分は、それがそうであれ、罪は犯されたのだから、実名報道されるべきだというものです。僕個人としては、その時実名報道を控えた姿勢は大きく評価したいのです。犯罪を犯すなんて、みんな精神異常といえるじゃないかという意見をいくつか目にし、耳にし、でもその大部分の意見は、精神異常とか、精神障害という言葉を真に理解してはいないように思えてなりません。法律上での争点は、犯行に及ぶ際に、犯人に判断力があったかどうかということが問題で、かっとなって頭に血がのぼって何も考えられなくなった、とかそういう事を言っているのでは無いのです。

　また、精神障害なら無罪放免というわけではなくて、法的責任を負えないと判断されれば、措置入院という方法で、知事の命令で強制入院治療が行われます。一生を病院で過ごすというのも偏見で、治癒すれば退院できますし、すべてが鉄格子の閉鎖病棟というわけでもないのです。とにかく、精神病はれっきとした病気で、的確な治療を要するのです。

　正論を言えば、精神病患者というカテゴリーはとりあえず別に置いてみれば、罪を犯した時点で全て実名で報道し、その罪を背負った上で、しかし、服役したということで、温かく社会に受け入れられるべきで、全ては隠す性質のものではないかもしれませんが、差別無く受け入れられる社会とはほど遠いのも事実です。そういう意味では、後に無罪の判決を受けたとしても、裁判の苦痛がまずありますし、判決が無罪だとしても、一端注目を浴びてしまえば、言われなき差別の標的となりうるのです。そんなとき、報道は暴力となります。精神病は全て取り締まれだとか、人を殺さないように、一生病院に閉じこめろという意見が当然のように飛び出す社会では、精神病という世界の理解もまたほど遠く、今回実名報道を控えた波紋が、逆に精神病への偏見と差別を招いたような気がしなくもありません。

　個人的には、そういった世論がさらに悪循環を呼んでいる感があって、ある程度病識がある、すなわち自分が病気じゃないかと理解しているようなケースにおいても、精神科に行くのには二の足を踏んだり、あるいは家族に止められ、隠されるという事態に陥ります。時に医学的に無知な教師に統制される可能性もある、学校という場所も危険です。「健康な体に健全な精神は宿る」なんて言ったら、身障者に怒られますよというお話。尤も、原語では荒んだ世の中に皮肉を込めての願望「宿れかし」だったという話も聞きますが。

　精神科の外来に来る患者さんにどういうイメージを抱くでしょうか。確かに一昔前は、一種異様な雰囲気、脱力感と混乱を感じさせるようなものが無かったとは言えないようです。最近は、外見上は健康な体を持った人々が多いです。一昔前、高度経済成長時代は、精神的に病んだ人間を社会に出すことを良しとはせず、とにかく入院、社会から隔離することを考えたのです。もちろん、病院は治療空間というよりは、ただの入れ物であって、アメニティー(快適さ)からはほど遠いものであり、一般的な「精神病院」の悪いイメージはそこから来るところが大きいかと思います。

　僕の通う大学には閉鎖病棟は存在せず、おそらく多くの人の精神病棟のイメージであるそれは、外病院でのポリクリで見学しました。県立の施設であり、司法の分野から措置入院というかたちで送られてくる患者さんが真っ先に受け入れられるところです。入院制度については先にも少し触れましたが、一般診療科における入院手続きには、もちろん本人の同意が必要です。精神疾患においては、本人が同意する任意入院のほか、家族の同意と指定医の診断で入院させる医療保護入院、知事の命令で指定医二名の一致した診断のもとに強制的に入院させる、措置入院という三つがあります。司法の分野では、精神病を扱い切れておらず、結局、犯罪か精神病かという判断の後、司法の分野で治療が行われるわけではなく、精神病院に送っておしまいだし、刑務所に服役する相当数の囚人は、恐らく精神的に失調した部分があり、カウンセリングや投薬などの治療を行わなければ、覚醒剤なり、傷害なり、犯罪を繰り返すのは必至なのだといいます。もちろん、肉体的疾患についてはある程度ケアされますが、心理ケアの部分は、様々な分野で立ち遅れているのです。

　精神科という診療科に対する誤解は、少なくなってきたとは言え、まだまだ根強く社会に残るが故、ケアが必要な相当数の人間が、社会的に放置され、やれ怠けているだの、やれしっかりしろだの言われて苦しんでいるのです。それに対して、思春期にある子たちの精神疾患は、うつ病にしても、薬効は現れにくいし、下手な治療やカウンセリングが、その依存性を増長させ、退行現象を引き起こしかねないといいます。なんだか難しいですね。また、例えば、癌患者が、それによってうつ状態になることなどがありますが、「警告うつ病」というものも知られています。これは、癌になったことで、それが見つかる前に、うつ病が前駆症状として現れるもので、特に膵臓癌などでは、この出現の頻度が高いといいます。

　とにかく、れっきとした病気なのです。ちなみに、うつ病患者に対して、励ましたり、重大な決定をさせたり、旅行に連れ出したりといったことは禁忌です。まず、自殺されてしまうことでしょう。うつ病の患者は、すでにもの凄く頑張っており、まわりに対しても気を使うので、旅行などに連れ出すと、無理に明るくつとめたりします。まさに、言葉は暴力であり、しかし使い方を換えれば、薬にもなり得る力を持ちます。精神科の知識というのは、本当はみんなが知っているべきことのような気がします。医師じゃなければ、禁忌薬剤を投与する可能性はまずありませんが、禁忌語を口にすることは誰にでもできるのです。死にたいという人間はまず死なないとか、一度自殺を失敗した人間は二度と自殺を繰り返さないなんていうのは全部迷信です。命を救うのは本当に難しいですが、失おうと思ってしまえば、意外にあっけないものです。